ついに日本を離れ朝鮮へ渡海した上杉景勝と直江兼続。熊川という地でもって普請に追われていた。そこへ本国より命令が届く。即刻、帰国の準備をせよという内容であった。
早速、帰国の途につく上杉勢。景勝と兼続は早速、大阪城へ向かい秀吉に謁した。そこで主従が大阪城で目にしたのは赤子を抱いた秀吉の姿。そばにいるのは淀と秀吉の養子である秀俊。秀吉が抱いているのは、淀が産んだ男の子の拾でる。笑顔を絶やさない淀、そして秀俊への対応が冷ややかな秀吉であった。
景勝と兼続は秀吉の態度に疑問をもった。総大将としての心得に不信感を抱いたのである。また秀俊への秀吉の態度。子が生まれたことで養子に対しての扱い、秀俊ならびに関白にまでなっている秀次への仕打が気になっていた。
そこへ噂の秀俊が現れ、上杉景勝ならびに直江兼続について、愉快に褒め称える。そしてこれからも昵懇に頼むと言い残した。
そんなある日、景勝と兼続は毛利輝元に招かれ屋敷を訪れていた。そこにはもう一人、輝元の叔父である小早川隆景の姿もある。毛利家から驚くべき提案がされた。
秀吉の養子である秀俊を上杉家の養子として迎えないか。
上杉家には未だ、景勝の後を継ぐべき子が不在であった。その為に秀俊の件、悪い話では無いというのが毛利家の言い分である。しかし裏を返せば、秀俊を毛利家に養子に差し出すと秀吉が言い出し、それを迷惑と思った輝元が話を持ってきたというのである。
秀俊を迎えることで、お家に難儀があることは間違いないと踏んでいるらしい。それは上杉家も同様。景勝は言葉の上では「困る」と言って、養子を迎える件は断るのであった。
この話を菊姫、お船に伝えた景勝。当然の様に反対の意見であった。この話を聞いたお船は北の政所に相談し、解決を願いでた。「秀俊も不憫じゃの」とは北の政所の言葉。事実、秀吉から請われて養子となっておきながら、毛利家に再度養子としてだされようとしている。しかし太閤の養子でありながら、それを難儀だと言って断られてしまう実の甥を思って出た言葉だろう。
その北の政所から話を聞いた秀俊が景勝の元へやってきた。養子である身であるのに、さらに別の家へ養子として出るのは嫌だというのである。同じ養子という立場であった景勝は何とかしてやりたいが、どうすることもできず、定めには抗えぬものと、ただただ心中を察する言葉を掛けるのが精一杯であった。結局秀俊は小早川家へ養子として向かい入れられ、小早川秀秋と名乗る。
もう一人の養子であり、関白という地位を手に入れた秀次。秀吉は自ら秀次に直談判に向かっていた。日本の国を5つに分けて、その中で1つを拾にあげてくれぬか、と懇願した。しかし秀次は何も申すことなく、その席を立ってしまった。秀吉の怒りは尋常ではなくなっていた。部屋のモノに当たっていたのである。
秀吉は決意した。城を築くことを。場所は京の伏見。全国の大名へ普請の為の人足を要求。越後からも四千ほどが動員されることになった。伏見城である。
文禄三年七月、ついに直江家にも男児が誕生した。跡取りができたということで、兼続とお船は大喜び。しかしその場には祝いに訪れていた景勝の姿が。そしてしばらくして菊姫もやってきた。平和な越後の光景である。
そして伏見城が完成した。徳川家康や毛利元就、上杉景勝らが築城の祝賀の為に城へ集まってきていた。しかしとうの秀吉は病ということで、大名等の前には出てこなかった。それを伝えに来たのは石田三成。その旨を口上して立ち去ろうとするのだが、家康に引き留められ、さらにノラリクラリと皮肉られた。城の普請、秀俊の一件などなど。
だれもいなくなった一室。三成は一人残っていた。そこへ姿を現したのが兼続。兼続は大の字に寝そべり、三成にも同じ格好をすると気持ちが良いと誘う。そして「嫌味など気にするな」と家康の言葉を気にするなと三成を慰め、そして元気づけようとしているのだ。三成は「また越後へ行きたい」とつぶやくと、兼続は「いつでも来い」ともてなす気持ちがあることを伝えた。
越後へ戻った兼続。泉沢久秀より府内に子供に学問を教えるうってつけの人物がいると聞いた。実は兼続の娘たちが父によって、手習いを受けていたのである。その人物は茶道もたしなみ、さらに美人というのだ。
さっそく府内湊の若狭屋へ向かった兼続。そこで目にした人物とは千利休の娘であるお涼であった。天下人に逆らった娘として、京にいられなくなり越後へ巡りついたという。しかしまもなく越後を離れる言う。
帰り際、兼続を慕って在の者達が集まってきていた。一様に家老である兼続をしたい、お礼を言っている。その姿を見つめたお涼は何を思ったのか。
翌日、兼続は二人の娘を連れて若狭屋へやってきた。もちろんお涼に手習いをしてもらうためだ。そしてしばらくこの地で暮らしてみてはどうかと、お涼を引き留めたのであった。
そして京。関白秀次が、石田三成から厳しい言葉を掛けられていた。謀反の疑いがあるので、しばらく高野山で謹慎してもらいたいというのである。
謀反などまったくの濡れ衣である秀次。この一件が秀吉の命なのか、それとも三成の進言によるものであるのかを叫ぶのが精一杯であった。
早速、帰国の途につく上杉勢。景勝と兼続は早速、大阪城へ向かい秀吉に謁した。そこで主従が大阪城で目にしたのは赤子を抱いた秀吉の姿。そばにいるのは淀と秀吉の養子である秀俊。秀吉が抱いているのは、淀が産んだ男の子の拾でる。笑顔を絶やさない淀、そして秀俊への対応が冷ややかな秀吉であった。
景勝と兼続は秀吉の態度に疑問をもった。総大将としての心得に不信感を抱いたのである。また秀俊への秀吉の態度。子が生まれたことで養子に対しての扱い、秀俊ならびに関白にまでなっている秀次への仕打が気になっていた。
そこへ噂の秀俊が現れ、上杉景勝ならびに直江兼続について、愉快に褒め称える。そしてこれからも昵懇に頼むと言い残した。
そんなある日、景勝と兼続は毛利輝元に招かれ屋敷を訪れていた。そこにはもう一人、輝元の叔父である小早川隆景の姿もある。毛利家から驚くべき提案がされた。
秀吉の養子である秀俊を上杉家の養子として迎えないか。
上杉家には未だ、景勝の後を継ぐべき子が不在であった。その為に秀俊の件、悪い話では無いというのが毛利家の言い分である。しかし裏を返せば、秀俊を毛利家に養子に差し出すと秀吉が言い出し、それを迷惑と思った輝元が話を持ってきたというのである。
秀俊を迎えることで、お家に難儀があることは間違いないと踏んでいるらしい。それは上杉家も同様。景勝は言葉の上では「困る」と言って、養子を迎える件は断るのであった。
この話を菊姫、お船に伝えた景勝。当然の様に反対の意見であった。この話を聞いたお船は北の政所に相談し、解決を願いでた。「秀俊も不憫じゃの」とは北の政所の言葉。事実、秀吉から請われて養子となっておきながら、毛利家に再度養子としてだされようとしている。しかし太閤の養子でありながら、それを難儀だと言って断られてしまう実の甥を思って出た言葉だろう。
その北の政所から話を聞いた秀俊が景勝の元へやってきた。養子である身であるのに、さらに別の家へ養子として出るのは嫌だというのである。同じ養子という立場であった景勝は何とかしてやりたいが、どうすることもできず、定めには抗えぬものと、ただただ心中を察する言葉を掛けるのが精一杯であった。結局秀俊は小早川家へ養子として向かい入れられ、小早川秀秋と名乗る。
もう一人の養子であり、関白という地位を手に入れた秀次。秀吉は自ら秀次に直談判に向かっていた。日本の国を5つに分けて、その中で1つを拾にあげてくれぬか、と懇願した。しかし秀次は何も申すことなく、その席を立ってしまった。秀吉の怒りは尋常ではなくなっていた。部屋のモノに当たっていたのである。
秀吉は決意した。城を築くことを。場所は京の伏見。全国の大名へ普請の為の人足を要求。越後からも四千ほどが動員されることになった。伏見城である。
文禄三年七月、ついに直江家にも男児が誕生した。跡取りができたということで、兼続とお船は大喜び。しかしその場には祝いに訪れていた景勝の姿が。そしてしばらくして菊姫もやってきた。平和な越後の光景である。
そして伏見城が完成した。徳川家康や毛利元就、上杉景勝らが築城の祝賀の為に城へ集まってきていた。しかしとうの秀吉は病ということで、大名等の前には出てこなかった。それを伝えに来たのは石田三成。その旨を口上して立ち去ろうとするのだが、家康に引き留められ、さらにノラリクラリと皮肉られた。城の普請、秀俊の一件などなど。
だれもいなくなった一室。三成は一人残っていた。そこへ姿を現したのが兼続。兼続は大の字に寝そべり、三成にも同じ格好をすると気持ちが良いと誘う。そして「嫌味など気にするな」と家康の言葉を気にするなと三成を慰め、そして元気づけようとしているのだ。三成は「また越後へ行きたい」とつぶやくと、兼続は「いつでも来い」ともてなす気持ちがあることを伝えた。
越後へ戻った兼続。泉沢久秀より府内に子供に学問を教えるうってつけの人物がいると聞いた。実は兼続の娘たちが父によって、手習いを受けていたのである。その人物は茶道もたしなみ、さらに美人というのだ。
さっそく府内湊の若狭屋へ向かった兼続。そこで目にした人物とは千利休の娘であるお涼であった。天下人に逆らった娘として、京にいられなくなり越後へ巡りついたという。しかしまもなく越後を離れる言う。
帰り際、兼続を慕って在の者達が集まってきていた。一様に家老である兼続をしたい、お礼を言っている。その姿を見つめたお涼は何を思ったのか。
翌日、兼続は二人の娘を連れて若狭屋へやってきた。もちろんお涼に手習いをしてもらうためだ。そしてしばらくこの地で暮らしてみてはどうかと、お涼を引き留めたのであった。
そして京。関白秀次が、石田三成から厳しい言葉を掛けられていた。謀反の疑いがあるので、しばらく高野山で謹慎してもらいたいというのである。
謀反などまったくの濡れ衣である秀次。この一件が秀吉の命なのか、それとも三成の進言によるものであるのかを叫ぶのが精一杯であった。























