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織田信長を語る 其の八 
天文二三(1554)年、尾張守護であり清洲城主の斯波義統が、守護代の織田信友およびその家臣であった坂井大膳らの謀によって命を落とすこととなる。

斯波義統の息子である義銀は、狩りの為に城外へ出ており難を逃れることができた。その義銀が父が策略により命を奪われたことを耳にすると、その足でもって信長を頼り那古野へ向かった。

義銀から事情を報された信長は日を置かず、宿老である柴田勝家を先鋒として,織田信友へ戦を仕掛けた。そして翌年の弘治元(1555)年、守護であった斯波氏に反逆した守護代織田信友を謀殺して、清洲城を奪取することに成功。このときの謀は次の様であったと言われている。

織田信友により尾張守護職を譲ると言われた織田信光。しかし織田信光はすでに信長と、領国内を両者間でもって分割する密約が結ばれていた。信友は信光を謀ろうとしながら,逆に主殺しの名分の元に討たれた。

織田信友が死んだ後、清洲城は信長が自ら入城。そして信長は信光を守山城から那古野城への配置換えを指示。
この時に守山城へ入ったのが信長の叔父である織田信次という者であった。しかし彼はある事件を契機として織田家を出奔してしまったのでる。

それは信長の弟に秀孝という者おり,彼が乗馬をしていた時のことである。織田信次の家臣が誤って放った矢が秀孝に命中していまい、命を落としてしまう。事故であった。これに激昂した信長は信次を罰しようとするが、その時にはすでに姿をくらましてしまうが、弘治二(1556)年に再び守山城を守備することとなる。

さらに那古野城主となった織田信光。かれも同年一一月、自らの居城であるはずの那古野城にてその生涯を終えている。死因については不明であり,病死か事故死かさらには謀殺など様々な説が流布されてる。

信光の死は信長にとって、尾張一国の統一へ向け障害が一つ取り除かれたことになったと言えよう。その為か信長の命により暗殺されたということも考えられるが,これも多く流れている推測の一つであろう。


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織田信長を語る 其の七 
織田信秀の死後,嫡男である信長は尾張国内の敵対勢力を次々に打ち棄ていく。尾張という一国の平定に向けて着々と歩む信長。

そして天文二二(1553)年,信長を愕然とさせる出来事が起きる。幼少の頃より信長の傅役として,成長を見守ってきた平手政秀が腹を切り諌死したのだ。

なぜ政秀が自ら命を絶たなければ成らなかったのか。これには様々な説がある。

信長の「うつけぶり」を諫める為という説や、政秀の嫡男五郎右衛門が名馬を巡って信長と争い、織田家と平手家の間が不和になったなどが現在に至るまで語られている。

真実はともかくとして、信長が衝撃を受けたのは事実であろう。また政秀を弔うのに「政秀寺」を建立した。ちなみに信長と美濃斎藤家の息女(濃姫)との婚姻は、この平手政秀の尽力によるものであった。

さてこの年であるが信長にとってもう一つ大きな出来事があった。蝮と異名を持つ美濃の斎藤道三との会見である。

信長の舅である道三は,娘婿にとの会見を織田家に持ちかけていた。隣国で「おおうつけ」といわれている信長という人物に好奇心を抱き、自分の眼でもって確かめたくなったのであろう。それがこの年に実現したのであった。後世に言われている「正徳寺会見」である。

ここでは簡単に触れておこう。場所は尾張中島郡というところにある正徳寺。この会見に先立ち道三は信長という人物を一目みるため、わざわざ信長率いる一行が通るであろう街道沿いのあばら屋に潜んでいた。

そしてやってきた信長とその軍隊。道三が目を見張ったのは鉄砲の数。そして当時としては常識外れであった槍の長さ。この隊列をみて道三は,織田家の経済力と信長の先見性に驚いたと言われている。

しかし行列の中心にいた、馬上の信長の格好を見て落胆した。大うつけという噂通りの格好であったからである。信長は舅との会見に臨むというのに,普段通りの身なりのままであり,さながら餓鬼大将が子分を引き連れている雰囲気であった。

会見場と指定された正徳寺。一足先に戻っていた道三は,約束の刻限よりも半刻ほども、婿の信長に待たされる事になる。

斎藤家の面々は痺れをきらしていたその時,信長は道三の目の前に姿を現した。そして道三をはじめ,その場に居合わせた者たちは驚かされた。

目の前にいる信長は,つい先ほど目にした馬上の信長とは別人であり、やんごとない若君を連想させた。道三は震撼した。尾張の「おおうつけ」とは仮の姿,信長とは麒麟児ではないかと,さらに我が子息はやがて婿の前に平伏すことになろうと近臣に語ったと言われている。

この会見でもって信長の名声はさらに大きく,そして隣国である美濃にまで知られることになったのであった。



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織田信長を語る 其の六  
天文二一(1552)年三月三日この日、織田信秀がこの世を去った。ちなみに葬儀は曹洞宗万松寺にて営まれた。ここで織田信長にとって、平成の時代になってまで語られることと成る有名なエピソードがある。

織田信秀の葬儀へおよそ七〇〇人あまりの家臣団等が参列してた。織田家親族衆である信長の実母である土田御前,実弟の勘十郎信行,さらには正室である濃姫の姿もあったと伝えられている。また織田家の家臣団では林通勝や柴田勝家はもちろん,信長付きの平手政秀もこの中にいた。しかし信長は一向に現れる気配がない。

だれもが「あのうつけ者!」と嘲る様に信長を思っていた時,およそ三〇〇人の僧による読経の中,彼は本堂に現れた。それも列席者を驚愕させる不相応な格好でである。

髪は茶筅に結び,着流しの姿,腰には荒縄の帯を巻き,太刀を差していた。葬儀への出席にはあるまじき格好である。さらに皆の度肝を抜かせた行為が続いた。そして焼香をする際になり信長は、抹香をつかみ手につかみ取りそれを仏前に投げつけ、そのままその場から去ったというのである。

葬儀に出席していた人々にとっては、唖然とさせられる出来事であった。「あの大うつけめ」との評判が織田家でより一層強く家臣団に植え付けられた。またこの事により,織田家の行く末に不安を覚える者も少なくは無かった。

この時の信長は一九歳である。

信長に対して実弟である勘十郎信行は、折り目高なる肩衣に袴をまとった正装で出席していたという。この二人の姿格好を見比べ、勘十郎信行をもって織田家の家督を相続させた方が,今後の織田家の為であると思う者も出始めていた。

ちなみにこの信長の奇行であるが、信長なりの父信秀に対する愛情表現であったとか、尾張国内における豪族等を織田家に対する警戒心を解かせる演出であったとも言われている。真相は定かではない。

そして織田家の家督は嫡男であった信長が相続した。那古野城をそのまま信長が居城として、弟の勘十郎信行には柴田勝家や林秀貞等の家臣を付けて末盛の城が与えられた。

織田信秀の死後、この機を逃さずに勢力拡大を図ろうとした者がいた。まずは動いたのが鳴海城主の山口教継と教吉の父子である。

山口父子は信長が家督を継ぐと,織田家を見限って今川方に寝返った。さらに今川家の後援を受けて軍を尾張織田領へ深く侵入を試みた。信長は一〇〇〇に満たない軍勢を率いて出陣。赤塚にて山口軍一五〇〇と対峙するが、結局は勝敗つかずに小競り合いのみにて退却。

またそれに同調するかの様に尾張守護斯波氏の清洲勢もこれに乗じて動き出した。この当時の清洲城は尾張守護の斯波氏の本拠であり、守護代織田信友もここを居城としていた。いわば尾張の中枢であり中心となるべき城である。

織田信友には坂井大膳という家老が仕えていた。大膳は主君の信友を凌ぐ力を有し,家中での実権を手中にしていた。そして八月に,坂井大膳が信長方の城であった松葉、深田の両城を攻め,そして奪取することに成功している。

これに対して信長は迅速に行動を起こした。翌日には叔父である守山城主織田信光の援軍を得て、萱津の原にて坂井大膳率いる清洲勢と合戦におよんだ。信長は清洲方に大損害を与える勝利を収め、松葉、深田の両城も奪還している。

この勝利によって信長の武勇が国中に広まり,尾張統一へ向けて確実に動き出した。




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織田信長を語る 其の五 
さて、この頃の信長の日常生活はどの様であったのだろうか。言い伝えでは朝と夕には欠かさず、城下にて馬を駆っていた。さらに城下に住む同世代の武士の子等を集めての模擬合戦を行うやんちゃ振り、そして夏の暑い時期には付近の川にて水泳も嗜んでいたと伝えられている。他にも武将の子らしく弓や鉄砲,槍などの武芸に励み、さらに鷹狩りに興味を示したはじめたのもこの時期でもあったとか。

先に触れた模擬合戦。この合戦の中で槍は短い物よりも長い方が有利である事を見いだし、当時の平均的な槍(およそ二間半)よりも若干長い、三間ないしは三間半の槍を考案したと言われている。長い方が有利なのは当たり前に見える。しかし多くの武将は扱いやすさという観点から、あまりに長い槍を実戦で使うことはしなく,信長は実戦で使うことを頭の中で描いていたことだろう。

武者同士一対一での戦いでは確かに扱い易い方が有利である。しかし信長はこの時点ですでに、軍団同士の集団戦における戦法を思い描いていたと考えればまさに偉才である。 弱兵と言われた尾張の兵を,隣国美濃斎藤家や駿河今川家と同等に渡り合えるまで,その戦闘能力を押し上げる必要に迫れていた。

少年時代の信長の平時でいでたちが,今日までうつけ者の代名詞としてよく知られている。
輸帷子を着用しその袖を外し、半袴、腰には七〜八の瓢箪、火打ち袋をぶら下げ、髪は茶筅のように結び、熨斗付の太刀を差して歩き回るという出で立ちであった。また瓜や柿、餅なども食べながら城下を歩いていたと言われている。よくテレビドラマなどで織田信長の少年期として描写される格好である。この姿で子分を引き連れて城下を歩くのを目にした人々は、「うつけの殿様」などと噂しあっていたとか。今で言うところの反抗期であったのかもしれない。勝ち気な信長は大人達の意見を全くきこうともしなかった。

そしてこの頃、美濃の斎藤家から嫁を娶ったのである。蝮と噂された斎藤道三の娘である。道三は親子二代でもって油売りという一介の身分から,美濃守護であった土岐氏を追い払い,その地位についた下克上を画に描いた様な人物であった。

この帰蝶という名の姫は、信長との間に子をもうけたという史料は残っていない。また信長が美濃へ攻めた頃には離縁したとか,本能寺の変の際まで側にいたなど,諸説あるが真実は闇の中である。

また、後に江戸幕府の創始者となる、徳川家康(当時は松平竹千代)が織田家に人質となっていたのはこの時期である。実際に信長が家康と顔を合わせたかどうか,一緒に同じ時間を過ごしていたかどうかは不明であるが,何かしらの方法で,信長は三河松平家の幼い子息のことを知っていたはずである。

竹千代が今川家へ,織田家から送り返されるのは天文一八(1549)年になってからのこと。三河の安祥城が今川家の太源崇孚雪斎に攻められ、信長の兄である織田信広が今川家に捕らわれの身となり,織田と今川の両家にて捕虜の交換が話し合われた。その結果で織田信広が織田家に戻り、そして竹千代が今川家の元へ送られたのである。

この様な少年時代を過ごしていた、信長の元に悲報が報された。父親である織田信秀が流行病い(卒中とも言われているが)より急死したという。織田家当主の信秀亡き後、家督を継ぐのは嫡男である信長が正当であるかもしれない。しかし日常の振る舞いから信長を認めようとしない者もあり、中には弟である勘十郎信行を推す宿老等も織田家内部にはいた。



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織田信長を語る 其の四 
信長は元服した翌年の天文一六(1547)年に、三河の吉良大浜攻めにおいて初陣を飾っている。初陣は武家の子息にとって、重要な儀式の一つであり、この戦でもって敗退することは許されない。大名の子息であればなおさらのことである。 よって当時の風潮として,勝てる合戦を選び行われる傾向がある様だ。

信長は初陣ではあるものの織田家の総指揮官として出陣。しかし初めて合戦に臨む者に軍の采配を任せるのは無理というもの。実際に戦の采配を行うのは,その後見人が振るうものである。

この吉良大浜攻めで信長の後見を務め,そして采配を振るったのは傅役の一人である平手政秀であった。

ちなみに信長は、紅筋の頭巾をかぶり、鎧を着せた馬に跨り、馬乗りの羽織を着用という出で立ちで出陣をしていたと伝えられている。

この吉良大浜城とは、尾張と三河両国の国境付近に位置しており、西に勢力を拡大しつづけている駿河の今川家にとっては前線となる拠点であった。

織田勢はおよそ八〇〇ほどの兵で攻めいり,迎え撃つ今川勢は二〇〇〇の兵であったと言われている。真正面からぶつかれば,数の原理において織田勢にとって劣勢は拭えない。

はじめは織田,今川両軍のの間で直接的な武力衝突は行われず、織田方が吉良大浜城下の家々へ放火してまわり、引き上げたといわれている。直接干戈を交えるこは無く,信長自身にしても命を奪われるというリスクはかなり低かったころだろう。


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織田信長を語る 其の三 
信長の母は尾張の豪族土田氏の娘であったと伝えられている。

しかし彼女について詳細を今日にいたるまで判らない点が多い。織田家に関する文献,資料などでも露出が少なく,そもそも「どだ」なのか「つちだ」なのかも意見が分かれている。ただ信長が彼女の子であることは,一致した意見となっているのは間違いない。

さて信長は幼名を吉法師、また名を三郎(異母兄が二人いた為といわれている)と称していた。そして彼の傅役として、織田家宿老の林秀貞、平手政秀の両名がつけられた。

吉法師は二歳の時に父母と別れ那古野城に城主として入り,この地にて養育された。ちなみにこの時父の信秀は古渡城を本拠としていた。

吉法師は乳母の乳首を噛みきったというエピソードが語られるほど,やんちゃな赤子であったと伝えられている。気性が激しく入れ替わり乳母が入れ替わりだれにもなつくことがなかった様だ。そんな中で一人の女性にだけは心を許したと言われている。それが池田恒利の室であった養徳院夫人である。

彼女が乳母になった途端に、おとなしく乳を飲むようになったとか。ちなみにこの養徳院の息子が後年の池田恒興であり、信長とは乳兄弟ということになる。

そんな信長が元服したのは一三歳になった天文一五(1546)年の頃である。この時は普段の生活を営んでいる那古野城では無く、父である織田信秀や母の土田御前が居住していた古渡城にて元服の祝いが執り行われた。

この時に吉法師という名を「三郎信長」へと改めている。名前の「信」という文字には、天下を号令するのに相応しいということで、沢彦和尚が付けたと言われているが,おそらくは後世の作り話であろう。



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織田信長を語る 其の二 
織田信長が生まれたのは天文三年、これを馴染みのある西暦に置き換えると1534年になる。

今(2008年)から474年前というこだ。

その当時の日本はどの様な状態として,国が成り立っていたのだろうか。およそ500年前といと歴史の授業でも習った様に室町幕府の時代。将軍である足利氏が武家政権としてこの国の舵取りをしていた。

この当時,信長の生まれた尾張という国(今の愛知県)は、斯波氏が守護として統治していた。しかし斯波氏をはじめとした守護大名は多くの国を治めており,実際に統治していたのは守護代の面々である。

守護といっても名ばかりであり、応仁の大乱を境にしてからは全国的に名ばかりの守護などは,名声はもちろんその権威,果てはお家自体が没落していた。

尾張も例外では無く,守護代であった織田家が治めていた。その織田家も二家に分割されて、それぞれの家系で尾張一国を統治。

その二家というのは,岩倉城を本城として上四郡を支配していた織田信安と、清洲城を本城として下四郡を治めていた織田達勝である。

さて信長はどちらの系統だったのであろうか?そもそも信長の父である織田信秀は、下四郡を支配していた、織田達勝に仕える重臣の一人でしかなかった。

そんな状況下で信長の父である信秀は,他の同僚はもちろんであるが,主君であるはずの信達よりも実力がぬきんでていた。それの理由は経済力であるであり,信秀の治めていた領地に,地の利があったといえるだろう。

信秀は尾張の古渡城を本拠としていたが、このあたりは古来より交通の要所となっており、とくに伊勢方面との海運業でもって街の経済が潤っていた。

その経済力でもって信秀は強大な力を付けていき、やがて主筋であった織田達勝の力を圧倒するように成り、下四郡を統治する程の力を得ていったのである。

織田信長が信秀の子として誕生したのは、そんな時代であった。


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織田信長を語る 
戦国時代を生き抜いてきた武将たちの中で,誰がもっとも魅力あふれる人物であったのか。

槍を持って戦場を駆け巡った猛者や,兵どもを指揮した部将,さらには影となり謀略でもって主を助け,また外交術でもって後世に名をはせた者もいたはずだ。大名,小名から豪族や一兵卒にいたるまで。人によって挙げる人物は異なるだろう。

そういった数多の武将達の中でも,より多くの人が名前を挙げる人物といえば、おそらく織田信長ではないだろうか。実際にアンケートととったわけではないが。

若き頃は「大うつけ」と周りから蔑まれ、尾張国内においては家臣の離反があり、桶狭間の戦いにおいては三カ国を治める太守今川義元を討ち果たす偉業を成し遂げた。その後は隣国の美濃を手中に収め,将軍義昭を奉って上洛し,「天下布武」つまり「武」をもって天下を平定することを夢見ることとなる。

近江の琵琶湖畔に築城したといわれる安土城は,それまでの常識を多いに覆したと今日まで伝えられている。その先にみた夢はなんだったのか。本能寺にて命を絶たれたことにより,それは永遠の謎となってしまった。

そんな戦国の世を駆け抜けた織田信長はやっぱりすごい。という事で、織田信長をちょこっと語ってみたくなったので、ネタが無いブログにてちょこっと掲載させてもらいます。

ひとまず,生誕から桶狭間までを目標にして,このカテゴリで語っていくことする。




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