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天地人 第三十八回「ふたつの関ヶ原」 

徳川家康方についた豊臣恩顧の大名であった福島正則は、石田三成方についた美濃岐阜城を攻め落とした。その報せを受け、徳川家康は伊達政宗に対し、上杉の押さえとして出兵を指示。そして家康は自ら三万二千の軍勢を率いて、東海道を西に上っていった。

会津では直江兼続が中心となって、対最上義光への戦略を練っていた。まずは長谷堂城を攻め落とすことで意見をまとめていたのである。伊達家の動きを軽快するが、家康と石田三成が決戦に及ばない限り、動かないと予想していた。

そのころ美濃大垣城では、三成をはじめ大谷吉継や宇喜多秀家、それから小早川秀秋らが揃い士気を高めつつあった。

しかし三成が祭り上げた西軍の大将である毛利輝元は、大阪城において豊臣秀頼と弓の遊びに興じていたのである。それを心配そうに見つめるのは淀君。輝元は軍勢の総数が圧倒的に多い西軍が勝つであろうと、余裕の態度を見せていた。

家康は軍勢を美濃に入れた。しかし三成ら諸将が籠もる大垣城へは目もくれず、そのまま近江を通り京まで軍勢を推し進める気配である。西軍の諸将はその進撃を阻もうと、城から軍勢を出し、一路関ヶ原へと先回りしたのであった。

こうして関ヶ原には、三成方の西軍がおよそ十万、家康方の東軍がおよそ七万五千という大軍同士での決戦の火蓋が切られようとしていた。

関ヶ原に大軍が集結しつつあるその頃、兼続は最上家の長谷堂城を上杉軍二万でもって包囲していた。その陣中に上杉景勝が出陣されてくるという報せが届き、よりいっそう士気が向上していた上杉軍であったが、兼続一人だけなにか思慮する様子をみせていた。

慶長五年九月十五日、関ヶ原で史上空前の大合戦がはじまった。東軍が西軍に襲いかかり、それを必死に食い止める。石田の陣中には大筒も配備されており、その威力は味方の士気を鼓舞するのに活かされた。しかし西軍優勢にもみえたが、実際に戦っている軍勢は石田軍、大谷軍、宇喜多軍の全軍勢の三分の一程度。他の小早川や毛利に至っては山に籠もったまま静観の態度で、合戦へ参加していなかった。

しびれをきらした三成は、自ら松尾山に陣取っている小早川の陣へ足を運び、秀秋の説得に赴いた。「勝利の暁には、関白に」という言葉で誘う三成。しかし秀秋には先の関白である豊臣秀次一族が処刑される光景を思い描いてしまう。

秀秋の元には家康から三成より先に使者遠山康光が到着していた。遠山は二カ国の加増ということで誓詞も持参して説得に当たっていた。

家康は秀秋の煮え切らぬ態度に、松尾山の小早川陣中に鉄砲を撃ち込む。それを受け手秀秋は決断した。軍勢が山から下り、一気に三成の軍勢へと推し進めていったのである。

三成は目を疑い同様。石田軍の盾となって大谷吉継は奮闘するが、ちからおよばず自害。首は地中深く埋める様にと家臣に言いつけ、この世を去った。

小早川の東軍への寝返りでもって、三成の軍勢は潮が引くように退却し出した。三成の目の前には福島正則の姿が。島左近が時間を稼ぎ、三成は陣を退いたのである。

数日して三成は数人の郎党と共に佐和山まで逃げ帰るが、そこで見たのは炎上する佐和山城であった。初音と再会した三成は、彼女の手引きで安全な場所へ、その身を移動させたのであった。

その頃の兼続は最上の長谷堂城を攻めていた。あといっぽで落城までという。そこに届いた知らせは信州上田でもって、徳川秀忠率いる四万の軍勢を真田家二千の兵でもって、足止めしたという景気の良い話であった。伊達、そして最上を押さえたら、上杉家も一気に西に軍を進め、石田軍と共に家康の首級をあげるという壮大な謀略が兼続の口から発せられた。泉沢久秀ら重臣達は喜びいさんだ。

その石田三成は洞窟に隠れていた。初音はまわりを気にしながら食料調達のため、洞窟から出ていて三成一人。そしてふと、外を見るとそこに人影が目に入ったのである。

長谷堂城を攻めていた上杉の陣に、思いもよらない報せが舞い込んできた。関ヶ原でもって石田三成が大敗したというのだ。ことの成り行きを知り、一時でも早く軍勢を引き返すべしと、景勝に決断を迫り会津へ退却するを決した。敵に気づかれぬ様に、夜間ひっそりと退却する。もし見つかれば敵の追撃に、味方は大きな損害を受けることになる。兼続は自ら殿をかってでた。


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天地人 第三七話「家康への挑戦状」 
上杉謙信公の二十三回忌法要が、会津の地で行われていた。そこには越後へ残った仙桃院の姿もあった。

仙桃院は上杉景勝にたいして、新しく越後の領主となった堀秀政は、会津上杉家に謀反の心があるのではという疑心があると述べた。直江兼続はそれを、謙信公の遺骸が越後にとどまっているのが気がかりであり、そういった疑念を抱いたのだろうと、きっぱりと否定して仙桃院を安心させた。

それからまもなく、上杉家に徳川家康から一通の書状が届けられた。それによると、堀秀治の訴えがあり、謀反の疑いがあるということだった。新しい城を築き、鉄砲を買い入れていることがその理由だという。その申し開きのために上洛せよと記されている。

上杉家の面々は加賀前田家の前例があるだけに、上洛した暁にはどの様な罠が仕掛けられているかしれない。家康の脅しには屈服する必要は無いなどと意見が出された。しかし兼続の、上洛を拒めば逆心ありと見なされる、という一言で面々は強気な発言は成を潜めてしまった。

景勝と兼続の二人は対策を対応策に考慮していた。上洛を拒めば十万の大軍が押し寄せ、小田原攻めと同じ軍勢を相手に戦うことになる。景勝は正義は我らにあり、脅しに屈しては武門の名折れであると、上洛する意志がないことを兼続に伝えた。それを聞いた兼続は早速、家康への返書をしたためることを決意。ただ単に家康だけに送るのではなく、他の大老や奉行衆へも同内容の返書を送るというのだ。

その夜に記した書状は後生に、直江状といわれるものであった。

書状は大老をはじめ、主な大名、奉行衆などに送られた。それを手に取った家康は大いに激怒し、地団駄を踏んで悔しがった。こんな無礼な書状を手にしたことは無いと言って。

家康は豊臣秀頼の名の下で会津上杉征伐のための軍を招集した。総勢十万におよぶ大軍勢が大阪を発して、会津へ向けて進軍を開始したのである。

上杉家は家康率いる会津征討軍を迎え撃つため、白河の革籠原に長大な防塁を築きつつあった。ここで兼続一世一代の合戦を思い描いたのである。敵の大軍を此処へ誘い込み、一気に殲滅を図るというものだ。川の水を引き込み、進退が窮まったところへ追い打ちに鉄砲で打撃を与える。これで敵軍は大混乱となり、例え上杉勢が八千と劣勢であっても必ず勝てると見込んでいた。

一方、近江佐和山でも挙兵の準備が行われていた。石田三成が家康率いる征討軍に参じなりこと憂い、大谷吉継が密かに佐和山城を訪れた。ここで三成は吉継へ今回の策略を告白した。大将は毛利輝元であることを聞いた吉継は三成に、なぜ大将はお主ではないのかと問う。三成は人望がないからと正直に言い、私利私欲ではなく良き清らかな国を作りたいといって吉継に味方になる様に懇願していた。

そして三成は逆に家康を討伐するという名目で兵を挙げた。さらに大阪城へ諸大名の妻子を人質として集めたのである。

徳川家康は三成挙兵の報せを受けた。そこへ福島正則が血相を変えて、家康の陣中へ押し入ってきたのである。秀頼の為と思い軍を率いてきた豊臣恩顧の大名達は、今度は逆賊として兵を向けられることになったのであった。激怒する正則。ここで家康は秀頼をまで人質にとって三成のやり方を批判。すべてが三成が天下に号令を掛けるために仕組んだことであると説明し、正則を納得させたのであった。

上杉本陣では三成が挙兵したことで、家康が西へ軍勢を引き返す命令を各隊に出したという情報を得た。ここで敵を追撃して家康の首級をとるかどうかで意見が分かれた。景勝は追撃に反対するのに対し、他の家臣たちは好機到来と意気揚々と家康追撃を具申した。

兼続の実弟である大国実頼は景勝の命令を振り切って、出陣すると本陣を後にして出て行ってしまう。景勝は急いで連れ戻すように言い放つが、兼続も追撃するのに間違いは無いと景勝の意志に反する意見を申した。

義に背いてまで敵を討てば、天はやがてわれらを見捨てる。景勝の本音であったろう。そして自らの太刀を抜き兼続に、追撃したくば、わしを斬ってからにせよとは景勝の言葉。兼続は家康討伐をここで断念した。その時、最上勢が上杉領に侵攻してきたおいう報せが入った。兼続は実頼を引き留め、最上攻めに向かうことを景勝に誓った。


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天地人 第三六回「史上最大の密約」 
慶長四年三月、前田利家が亡くなった。その夜のことである。福島正則をはじめとした七将が今までの不満を爆発させる様に、石田三成の館へ夜襲を仕掛けたのであった。その三成は逃げ場として選んだのが徳川家康の屋敷。

直江兼続はその情報を三成の使者から知り驚愕する。この急場をしのぐにはどうするべきか。兼続に一つの妙案が浮かんだ。

淀君に救いを求めたのである。そして大国実頼を使者として徳川屋敷へ向かわせた。

徳川屋敷では三成の処遇について、家康と本多正信との間で議論されていた。生かす殺すか。そこへ淀君からの使者として実頼が来着。なぜこんな早く三成が此処へやってきたことを知ったのか不思議であったが、使者が兼続の実弟としり納得。また上杉がからんできては、大老の一人として警告であるとも受け取った。

家康はひとまず三成と直接、面会してみる決断をした。

三成に会うなり家康は、福島や加藤らは自らが説得にあたる旨を伝える。しかしそれだけでなく三成に対して騒動を収めるために居城でもある佐和山でのんびりされよと提案。つまり京から去らせ、政から外させる意図が見えていた。三成は反論するのだが、家康に恫喝され仕方なく佐和山へ蟄居することとなった。

そして秀頼の後見として一切の政務は家康が執り行うことが必然となったのである。

家康が下した三成の処遇について不満があった兼続。この旨を毛利輝元へ訴え、力になってもらう様に懇願した。

大老が集った会議。ここで加賀の前田利長が家康暗殺を企てているという疑いがあるとのことで、詰問状を送るべしと家康が言いはなった。勝手に事を進めようとする家康に対して輝元は異議を申し立てた。しかし家康は話題を変え、他に石田三成も同様に暗殺を企てていたと言い放ち、それに連座するのが上杉家の直江兼続であると付け加えた。

これを否定したのは上杉景勝である。上杉家にはその様な不埒な者は居ないと言い放つ。形成が家康にとって悪くなると、景勝に対して国替えがなったばかり。そろそろ国に帰ってはいかがだろうかと提案して席を立ったのである。

景勝はその言葉を利用して会津へ帰国することを決意。兼続は家康の謀略であるからと言って考え直す様に説得する。しかし景勝は承知の上での帰国の意志であるとの見解を兼続は理解した。

上杉景勝、直江兼続は京を去ることになった。小早川秀秋などと別れを惜しむ。そして兼続は帰国の途中、石田三成と会っていた。

初音に迎えられた兼続。初音が申すには毎日毎日、わらじばかりを編んでいるという。兼続が声を掛けるのだが三成は、話すことは何もないといい、相変わらずわらじを編み続けていた。

兼続は三成の隣に腰を下ろし一緒にわらじを編み始めた。わらじ作りには兼続が勝っていた。三成は改めて兼続に対し太閤殿下が欲しがっていた意図が分かったと話はじめた。兼続には人がついてくる。今回三成を襲った加藤や福島であっても兼続なら耳を傾けると。
しかし兼続は三成の良さを言い返す。私利私欲が無く誠実である。太閤殿下の罪であるべきことをすべて三成が追ったことなどを並べた。そして三成が編んだわらじを手に取り、これを兵たちに履かせてやれと進める。

そして夜が更けてくると、三成と兼続とで密談がはじまった。上杉家の存亡を掛けた壮大な作戦が練られ始めたのである。それはざっとこんな感じである。

会津へ帰国した上杉家に対し、家康はなんらかのカタチでもって兵を挙げる。そうなると京がガラ空きとなるので、三成が秀頼を担ぎ兵を整える。そして豊臣恩顧の大名に檄を飛ばす。会津の上杉と上方の軍勢でもって、関東の家康を挟み撃ちにするというのがその大枠だ。

一段落した後、夕餉の席に移っていた。兼続、三成、初音、それから島左近の四人。初音は安寧の世になったら何をしたいかを訪ねた。

兼続は田畑を整え、道を造り、天災にも備える。さらに武士だけでなく農民の子たちにも広く読み書きを教え、人が人を信じ合う世の中を作りたいと語り出した。

三成は海を船で旅したいと。遙かかなたには何があるのか、見届けてみたというのだ。それには初音も同調した。

その翌朝、兼続は三成と分かれた。これが今生の別れになるとは知らずに。

家康は大阪城に新たな天守閣を築城。さらに加賀前田家より人質として、利長の母であるまつを江戸に差し出させた。

会津では兼続が中心となり、道を整えさらには新たな城を築き始めていた。


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天地人 第三五回「家康の陰謀」 
城である春日山城と比べ平城の若松城を頼りなく見ていた。

そして若松城へ京より報せがあった。太閤殿下こと豊臣秀吉の病。もしものことがあれば徳川家康が動きだし,世が乱れると予想する兼続にとって,上洛をしなければ成らないが国の守りをおざなりには出来ない。特に不安なのが米沢の地。ここで惣右衛門が自ら米沢の地を預かると申し,兼続は安心して上洛の途に就いた。

徳川家康は北の政所を味方に引き入れようと,日々その館を訪れていた。今日も手製の薬を持参してご機嫌伺いに。家康は北の政所に対し,石田三成と上杉が憂いである旨を伝える。上杉は国の整備を理由に上洛せず,何か良からぬ企てがあるのではと心配してのことであった。

上洛した兼続は上杉の京屋敷でもって,情報の収集に努めた。現状を大国実頼や菊姫から直接聞き,家康と北の政所が接近していることを耳にする。

そして慶長三年八月一八日,太閤まで上り詰めた秀吉はこの世を去った。

秀吉は最後,三成に茶を所望した。これは三成が近江の地で秀吉に初めて目通りした時の再現である。茶を欲した秀吉に三成が茶を馳走した。初めのいっぱいは温めで飲みやすく,次の二杯目は程よい熱さ,そして三杯目にはゆっく茶の味を愉しめる様に熱い湯で出したのである。秀吉は満足であった。そして三成の耳元で何かを囁き,息を引き取ったのである。

この囁きは「みつなり・・・てんかを・・・」というのである。

秀吉が逝去したため,会津より上杉景勝が上洛。これを真田幸村が,かつて越後から出奔したことを詫びつつ,出迎えた。景勝は天下が乱れるのを案じ,幸村の気骨を頼りにしていると声を掛けた。

五大老が揃った場で家康が景勝に対して早速,皮肉を込めて口で攻撃してきた。太閤殿下が逝去した際に景勝だけが領国にあり,他の四大老でもって朝鮮からの撤兵などを決したと。

ここで三成が今後の体制について口を挟んだ。これからは5人の大老と5人の奉行衆の合議でもって政を行う旨を景勝に伝えたのである。これに対して家康は三成を叱責する。大老筆頭である家康が景勝に物申している最中に,口を挟むなというのだ。この場は毛利輝元と前田利家によって取り持ち,何とか大事には成らずにすんだ。
秀吉の遺言に従い,淀君と秀頼は伏見城から大阪城へと移った。それに伴い北の政所は大阪城本丸から,西の丸へと居を移した。

その大阪城へある日,諸大名が呼びされた。その理由は淀君が秀頼への忠誠を各大名へ再度,誓ってもらう為である。前田利家,毛利輝元,上杉景勝,そして宇喜多秀家は素直に応じた。しかし家康だけは違った。「当たり前のことを口に出すのもおかしい」というのがその返答である。

さらに続ける。「それよりも案じている」と何かを心配している様に装い三成に視線を向けた。「お方様と秀頼君を悪しき者が惑わせねば良いが」と。「裏で糸を引き天下を操ろうとする奸臣がおる」そして「長らく上洛せず,不穏な動きをする大名もおる」などと明らかに上杉家を批判しているのであった。

黙っていられない兼続。景勝に発言の許可を得て家康に意見した。「天下を操る奸臣とは誰か」「不穏な大名とはどなたなのか」。これをはっきりこの場で言ってもらいたい,言えないのなら言葉を取り消せとの事である。それに賛同した幸村も声を上げ家康に迫った。

家康は言の葉は一度口からでれば取り消せないない,とポツリ。

よからぬ雰囲気を察してか淀君と秀頼は,その場を退出していった。家康もそれにつられる様に「この場にいると戦に成りかねぬ」と言いながら座を立ち,三成の前で「そなたごときに束ねられない」と呟き退席していった。

その夜,初音が兼続の元を訪ねてきた。初音が言うには三成が徳川家康を夜討ちする準備をしていると言う。

兼続はすぐさま密なりの屋敷へ向かった。三成の家康を夜討ちする決心は堅かった。しかし兼続は挑発にのらず,天下を守る者,揺るがぬ志を一時の感情に駆られて捨ててはならないと,何とか三成の夜討ちを断念させた。そして家康と雌雄を決する時は最後の最後。その時は知恵の限りを尽くすと,暗に手を携えて渡り合おうと言っているにも等しかった。

石田三成は家康が太閤殿下の遺言に反した行動に出ているといって糾弾することに。伊達,蜂須賀,そして福島家と婚姻を勝手にすすめているという事だ。これを四大老,五奉行の名のもとで家康に詰問する使者を出す。予想に反して家康は「各々,覚悟は出来ているだろうな」と詰問の使者を一喝した。

最近は三成に対しての風当たりが強くなり,また伊達政宗など諸大名の一部が徳川家康に靡きつつあり,大戦に成りかねぬ状況になっていた。この状勢について兼続と景勝は懸念を抱き,病で伏せっている前田利家に仲裁を頼むことにした。
利家邸を訪れお願いをした兼続。利家は引き受けてくれたが,そこへ現れた訪問者は家康であった。家康は見舞いという口実で訪れ利家と会談。その場には利家の嫡男利長と兼続も同席していた。

騒ぎが起こっていることを詫びる家康。そして利家の病が癒えるまで秀頼を守ると誓った。それが偽りかどうか定かではない。利家は家康を手元に引き寄せ,隠し持っていた短刀を家康の首に突きつけた。そして再度,偽り無き言葉で誓えるかと,半ば脅して誓わせたのである。承認には前田利長,そして直江兼続。

その利家も亡くなったのが慶長四年三月のことである。


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歴史小説 「群雲,賤ヶ岳へ」 
そもそも「乱世が好き」という題で発表された作品であり,のちに「軍師 官兵衛」と改題され出版された歴史小説である。

それがこのたび文庫化されるにあたり,「群雲 賤ヶ岳へ」として刷新されたているが,内容に大きな変更は無い。

「群雲,関ヶ原へ」に続く「群雲シリーズ第二弾」というのが触れ込みだ。

しかし本書を読んでみるみるとわかるが,賤ヶ岳の戦いに主眼を置いて語られているのではない。

賤ヶ岳で行われた戦を期待して手に取った場合,当惑してしまうことになり得るのでここで注意しておく。

本書は当初に出版された題名の方が合致している気がする。乱世を生き抜いた戦国武将の物語。

また最初に改題された通り,羽柴秀吉という武将に仕えその軍師として生きる喜びを知った黒田官兵衛。

官兵衛の武人として,軍師として,そして官兵衛の人間性を伝えるエピソードなど,乱世に生を受けた武将の生き様を堪能できる。

読み終わった時,黒田官兵衛という武将の見方に変化があらわれることだろう。



群雲、賤ヶ岳へ (光文社時代小説文庫)
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ひろぞう戦国物語〜歴史小説〜
ひろぞう戦国物語



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天地人 第三四回 「さらば,越後」 
直江兼続の元へ駆け込んできた石田三成からの急使。その使者に導かれ,何処かの館へ連れて行かれる目隠しをされた兼続。そこは豊臣秀吉が養生のために寝起きしている館だという。

秀吉の部屋に通された兼続。秀吉は憔悴しきっており,兼続に同行している三成を秀次と見間違えてしまうほど。兼続を呼び出した秀吉は,上杉家にある頼み事をするためであった。それは上杉家の国替えである。現在の越後から会津へ行ってもらいというのだ。石高は越後よりも増え,上杉家は徳川家や毛利家にも匹敵する,一〇〇万石の大大名へとなる。

兼続は突然のことでもあり,なにも言えないが秀吉は苦しみながらたてつづけに懇願した。関東の家康の抑え,日本国の安泰のため,決して秀頼の行く末だけを考えてのことでは無いと。

上杉家の屋敷へ戻った兼続は国替えの件を主君である上杉景勝に報告した。景勝の見通しでは秀吉死後の日本は乱れる。ならば越後の民を守るという気持ちであった。兼続の考えは少々違った。かつて謙信が関東管領として越後だけでなく,関八州の安泰を願い奮闘した志を継ぐことが大事であると。

景勝の気持ちは揺れ,一ヶ月後に会津入りを承認した。

国替えの旨は越後春日山で兼続が景勝に替わって家臣等に伝えた。不満を口にする上杉家臣団。兼続の実父である樋口惣右衛門は会津の魅力を伝えるのだが,言い終えるとため息が出てしまう始末。

兼続は泉沢久秀の屋敷を訪ねた。しかし久秀は仮病を使い床に伏せっている。越後を離れることに反対している様だ。兼続は久秀と二人きりになるとある依頼をした。それは国替えにあたり家中の中で身内を越後に残しても良いという者を探して欲しいとのことだ。もし国が乱れた際に越後へ戻る時,それを手引きしてくれる者が必要だという。久秀は乗り気になった。

また景勝の実母である仙桃院は越後に残り,謙信の御霊を守るという。

お船はひさしぶりに越後へ戻ってきた。そして子供達と供に越後での最期の冬を,雪を,かまくらに入って楽しむお船であった。

年があけ慶長三年一月,正式に上杉家に対して,越後から会津への国替えが命ぜられた。これにより会津,米沢,出羽,佐渡,それから庄内と会わせて百二十万石からなる大大名上杉家の誕生であった。また秀吉から景勝に直接,兼続には米沢三〇万石をということであったが,兼続自身はこれを固辞したのである。

この国替えを徳川家康は,秀吉が死を悟り最期に一手と読みながら,最後の悪あがきであり,読みが甘いと側近の本多正信に語った。この国を新しく作り替えるのは自分であると野心の炎を燃やし始めたのである。

国替えの準備に越後へ戻った兼続。春日山城では久秀とその子らを目にした。彼らは土を手に取っているだった。また久秀は二男と三男は越後へ残しておくことを兼続に伝える。

また兼続はお涼との別れの挨拶をする。お涼にとってみれば愛しの兼続と別れるのは辛いだろうが,これも致し方無きこと。

兼続と景勝は八海山にのぼり,そこから越後の姿を最後にと目に留めていた。

そして国替えが行われた。多くの民を引き連れて,越後から会津へ向かう人々。家財道具一式を手押し車に乗せの移動は楽な物ではない。それを兼続は励まし,手伝いながら一緒になって会津へ向かうのであった。





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天地人 第三三回「五人の兼続」 
越後上杉家の家老となり、重要事はすべて直江兼続が差配していた。ある日、主人の景勝へ報告へと向かう兼続。景勝から「よいっ」と強い口調で何も聞かずに言われた。景勝が言うには、兼続が分かっていればそれで良いとのことである。兼続が思うがままに働き、景勝自身はその盾、つまり責任は全うすると言うのだ。景勝が兼続に対して抱いた信頼の証でもあった。

この時の景勝が発した言葉「兼続が5人いれば、越後は易々と治まる」が、後に重大な意味を持つこととなる。

この二人のやりとりの時、関白秀次が謀反の嫌疑により高野山へ追放されたという報せが春日山に届けられた。兼続は急ぎ、上洛の途についたのである。

関白秀次は追放後、7日で切腹となった。このことで一番心に不安を抱えているのが同じ養子である秀俊。兼続の元へやってくるなり、親父様(秀吉)に命を奪わぬ様に頼んでくれという。兼続は名家小早川家への養子が決まっており、その心配は無用であると秀俊を安心させたのであった。

関白秀次が謀反とのことであるが、事の真相が不明であり、兼続は自ら三成へ聞くため足を運ぶが会うことはかなわなかった。

伊達政宗。今度はこの奥州の大名にまで嫌疑が掛けられていた。関白秀次と親しくし、また鷹狩りなどで密談していたというのが、謀反の疑いだと詰問者は言う。政宗は笑って取り合わない。人に会えば話しをするのがあたりまえだと言い張るのであった。また関白と親しくすることで何が悪いのかと、逆に問い詰める始末。この一件は三成が、伊達と関白が親密であったという事実だけ分かったと言い、政宗を解放した。

この政宗への疑いは徳川家康から北の政所経由で秀吉へ、取りなしを願い何事もなくすんだ。

そして事態はさらに悪い方向へ。秀次の妻女をふくめ、一族が三条河原で処刑されるという。兼続はその場に向かい、三成がその指揮を執っている様であった。何か叫ぼうとするが、初音にとめられる。

兼続は三成へ会うためたびたび足を運んでいた。この日も断られ館へ戻ろうとするとき、拾と戯れている秀吉に呼び止められた。秀吉に招かれるまま部屋に入る兼続。そこには真新しい装束が。実は拾を関白を継がせるため、官位を賜りに行ためにつくらせたものだという。

そこへやってきたのが三成。兼続を確認すると場が悪そうな顔をしながら秀吉の方へ向かい頭を下げた。秀吉が三成を呼んだのは新しい命令を与える為である。その命令とは聚楽第を破壊せよ、それも跡形もなく消してしまえ!というものであった。三成はそれを聞くと退室していく。

ここで兼続は秀次の一族が殺された真相を知らされる。実は秀吉が拾の為と思い、拾を守るために謀反人の一族を殺害したという。この命を受けた三成は反対したそうだが、秀吉からみれば考えが甘いらしい。

兼続はさらに三条河原で聞いた初音の言葉を思います。石田三成は人一倍、痛みが分かる。いつも正しい事なのかどうかを一人で苦しみ続けていると。

秀吉は拾の為に、諸大名から忠誠を誓うための起請文を求めた。徳川家康や前田利家、それから上杉景勝等の面々がそろっていた。

秀吉退席後は、徳川家康による三成の糾弾であった。関白であった秀次への処遇についてである。何も切腹をさせる必要は無かったのではないか。というのだ。三成はただひたすら頭を垂れ「面目次第もない」と言うのが精一杯。家康はさらに攻めの手をゆるめず、太閤の陰謀という流布があり、これも三成がいたらぬためであるなどと言ってきた。

反論したのは上杉景勝であった。主の責めを家臣に求めるのは見当違いであるというのだ。家康と景勝、両者の間に入ってこの場をおさめたのが、前田利家であった。

この景勝の発言を大いに喜んだ兼続。そして景勝のある言葉を思い出す。「兼続が5人いれば」。

兼続は三成を人気の無いところへ連れだし、二人っきりで話をした。兼続は提案した。政(まつりごと)のカタチを改めるというのだ。現行は秀吉の専横である。それを合議制とすることで、大名等の力を逆に封じ込めるというのが狙いだ。三成は兼続にも手伝わせるという条件で受け入れた。

話はとんとん拍子に進み、大老職を六人の大名、前田利家、上杉景勝、毛利元就、小早川隆景、宇喜多秀家、そして徳川家康とした。三成は家康についてははじめ反対であったが、兼続が言う大老という仲間に組み入れることで勝手なことをできない様にするという意見に納得したカタチだ。さらに奉行職を三成を中心に置くことを決めた。

しかしこれをどうやって秀吉に提案をするのか。前田利家の元に向かった三成と兼続。ここで利家に相談した結果、秀吉に直接言っても無駄なので一計を施すこととなった。

秀吉の前にでた利家。それから三成と兼続。秀吉は書面を読んだだけで怒り心頭。聞く耳もたないという構えだ。利家がすかさず兼続に意見を求める。すると兼続は、過去に上杉謙信公が跡目を決めなかった為に、悲惨な内戦により国力は疲弊したという。現時点での政権力を盤石にするために必要なことだという。

それでも秀吉は納得しない。

ここで三成が涙を流してしまった。それを見かねた利家。秀吉に対して、この二人ほど殿下の為を考えている者は居ない。情に訴えついに秀吉はこの制度を受け入れた。

こうしてできあがった6大老、5奉行の制度。

兼続と三成の仲はさらに親密となった。しかし大変な事態が起きていた。淀君の前で拾と戯れていた秀吉が倒れてしまったのだ。




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天地人 第三一回 「愛の花戦」 
天正十九年、出羽庄内でおきた一揆鎮圧へ赴いた上杉景勝と直江兼続主従率いる上杉軍。
京では菊姫とそれに従うお船は、北の政所が主催したヒメサユリの花見でもって、諸大名家の妻女たちに紹介されていた。そこで北の政所が菊姫を気遣い、子ができないことについて、側室でも産んでもらえば良いなどと慰めた。

しかしそれは菊姫の怒りを買うだけ。ご心配無用!ときつい口調でもって返礼をしただけでその場を退出してしまった。部屋から出ても怒りが治まらない菊姫。お船にもどうしようもなかった。そこへ声を掛けてきたのが淀君である。

淀君は菊姫に問うた。越後にはヒメサユリは沢山咲いているのか?と。菊姫にお船は素直に咲いている旨を伝えると、淀君は沢山欲しいと言い京へ送ってくれという催促である。
越後からは部屋を埋め尽くすほどのヒメサユリの花が届けられた。淀君はこれ見よがしに大名家の妻女を招き入れ、皆の「きれい」という言葉と笑顔を見て満足していた。

翌月、天下を揺るがす大事件が勃発。豊臣秀吉の子である鶴松が逝去してしまった。三歳である。落胆する秀吉。北の政所も悲しみを淀君へ伝えるが、なにか疑う様なまなざしの淀君。

この悲しみを乗り越えるためか、忘れるために行ったのか朝鮮への出兵を決意した秀吉。
年が変わって文禄元年正月。兼続は館でお船がいない分、母親代わりも努めていた。子と戯れる兼続の元へやってきたのが主君である景勝。二人とも妻は京へ人質として出仕しているのであった。

すでに朝鮮への出兵のことは越後まで伝えられている様で、また世情についても二人の口から伝えられた。秀吉が太閤となり、関白は甥である秀次に譲ったとのことだ。しかし渡海してまでの戦には甚だ疑問がある様だ。

子を失った淀君は覇気が無くなっていた。いままで慕っていた奥方連中も陰口を言う始末。見かねた菊姫は淀君の部屋を訪れ励ますのであった。やがて淀君は「信玄の子が信長の姪を励ますのか」と言い、二人は打ち解けていった。

北の政所は秀吉が渡海するのには反対であるが、それを聞き入れる秀吉ではない。さらに出陣の折りには、と一緒に連れて行ってくれと示唆するのだが、淀が行からと断られてしまう。

朝鮮へ出兵の準備に奔走する石田三成。そこへ兼続がやってきて、二人っきりで時間を作った。兼続が訪れた目的は一つ。今回の出兵に関することである。思いとどまらせようとするが、三成は「これは国の礎を固めるものだ」といい、「豊臣の天下を安泰のものにするため」であると押し切った。

北の政所は徳川家康に上杉景勝、さらには直江兼続を招き、秀吉が海を渡らない様に尽力してくれと願った。

兼続は今回の出陣にあたり、異国の地で死ぬ覚悟であった。お船や子達には仙桃院を頼れという遺言まがいのモノまで認めていた。それをお船にたしなめられ、元気尽く兼続。

そして遂に朝鮮へ向けて兵を差し向けたのでありました。





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